ご本人のサイン付きで田村淳氏著書「母ちゃんのフラフープ」5月12日受け取りました。その後2日かけて、人生で初めて活字本を読破しました!田村淳氏と私(筆者)の体験談と比較しながら感想を以下に記述します。
さすが、いくつかの本を出版してきた経緯があると見える。私は彼の著書で、この本(母ちゃんのフラフープ)が初めて読むのだが、しっかりと読み応えのある内容になっている。
- 彼のこれまでの人生をつづっている
- 芸人としてやってきた経緯、きもちが書かれている
- 3世代にわたる家族のことが書かれている
- 出会いと別れの事が書かれている
おおむね、このようなスタイルです。上手だなと思ったのは、プロローグから始まり、読みやすく設計された工夫がされている。活字が苦手な私も、ぐいぐい引き込まれていく感覚があり、スラスラと読み切ることができた。
「母ちゃんのフラフープ」感想
プロローグ
序章では、最終章につながるシーンが表現されている。
これにより、この本のラストシーンが、垣間見える。この出来事が、どうつながっていくのか?楽しみになる反面、悲しみのストーリーであることは間違いない。しかし作者が見てほしいのは、悲しみではない。むしろ”死というものにしっかりと向き合って、一度考えてほしい。”と綴っているように聞こえる。
のちに登場する、「イタコト」のサービスにもつながってゆく、そんな印象だ。
ITAKOTOとは?
大切な人と遺書動画を共有しよう
日本初の動画による本格的な遺書動画サービスです。
第一章 母ちゃんと、彦島と、無謀な夢と
山口県の彦島出身であること
田村淳氏の出身地は、皆さんご存じ、山口県彦島ということは、よく知られています。山口県といえば、下関、萩、宇部、岩国など町が点在している。私もかつて広島に住んでいた時は、よく山口県へ遊びに行っていた。
その頃、彼はすでに名の知れた芸能人として存在しており、もう20年になるかな。
西の本州の最果て、源平合戦は壇ノ浦にほど近い、さらに宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った船島にも近い彦島で彼は誕生し、育った。
貧乏だった幼少期
家庭は団地住まいで、決して裕福ではなかったと綴っています。お小遣いの金額を見てもそうだが、他の子供たちと比べても、2倍の差があった。その時点で格差を感じさせてくれる。昭和世代のにおいがプンプンしてきて、自分も幼少期を回想してしまう。
世代が近いので、当時の雰囲気は明確に伝わってきます。
幼少期の過ごし方については、私と共通する部分がある。
- 保育園で、親が迎えに来てくれる時間帯は、他の家に比べて遅いほう。遅くなる時は20時回ることもあったかな。両親は共働きで、たまに知らないおばちゃん(母の知り合い?)に連れられて変えることもしばしばありました。家と保育園は500mと離れていないのだが、小さな園児にとっては、結構な距離に感じた。
- 「人に迷惑だけはかけるな」私も厳しい家に育てられた経緯があり、大人になった今、その意味がよくわかります。同じような言葉はかけられた想い出があります。
- 淳さんのお母さんが看護師をやめてお肉屋さんのパートを始めるシーン。私の場合、自分の出産で母は勤めていたパン工場を辞めて、出産後復帰せず、より歩合制で稼げる保険のセールスを始めている。これは、より良い給料を求めていた結果で、その後大出征するわけだが。淳さんのお母さんが看護師という高給の仕事からお肉屋さんへ転職したのはそれとは逆の発想である。働く時間の安定が最も重要であったことがうかがえる。昨今の働き方改革で、そういった点は見直されつつあるが、まだまだだなぁと感じる仕事はいっぱいあります。
母ちゃんという存在
私は大阪出身、大阪育ちのため、「母ちゃん」ではなく「おかん」っていうのが一般的だった。いいかたは違えど同じ意味だ。
格言みたいなことはあまり覚えていないのだが、お箸の持ち方や、言葉の選び方(言ってはいけない表現)、ものの考える姿勢など、いつも言われてきたかなぁ。自然と自分の中に吸収されているのですが、具体的にってなると、すぐに思い出せないでいる。
私の場合、幼少期小学校4年生までは、一般的に普通に育った。小学校5年生から大きな変化が訪れることになる。お受験のはじまりである。
彼の母ちゃんはこう言った「勉強は出来なくてよいけど、興味を持ったことは、とことんやれ」
私の母は、田舎の徳島から大阪へ出てきて、アパート暮らしからスタートし、貧乏で苦労してきた。この苦労を子供にさせたくないと、一生懸命に働いた。そのためか、子供に特別な「学」をつけようとしたのだろう。私の意思に関係なく、小学校5年生より電車で45分の進学塾へ毎日通わせた。
私は勉強がきらいだった。みんなと放課後遊んでいることが一番楽しかったからだ。なのに、小学校を下校したらすぐに塾へと向かう。進学塾のため、授業レベルが格段に高い。ラサールや灘中学といった名門校を狙っている子供たちと一緒に夜の授業を受ける。そこでは断トツのベベという屈辱。私は決して勉強がしたいわけではない。そして、昼の小学校では断トツの成績優秀な存在。昼と夜のギャップがすごかった。なぜこんなに難しい勉強しなければならないのか?いつも葛藤だった。
私の母の場合、「大人になって苦労するはずだから、今のうちに良い大学へ行くための勉強をしなさい」ということだったのかもしれない。テレビゲームやおもちゃはあまり買ってもらえなかったが、勉強のための予算は惜しみなく出してくれていた。
本人の意思という面では、貧乏で暮らした淳さんのほうが、大人な考え方を幼少期にできたのだと思う。彼は長男であり、私は次男。やや育てられ方も、そういった意味で違い、未来への展望も早くつかむことができたのではないだろうか。私がやるべきことをリアルに感じたのは大学4回生のころだった。彼は小学生にして、自分の将来の絵地図を描き出していたことになる。その速さはとても重要なことだと思う。
ソフトボール、ミニバスケ、書道!あれもこれもやりたい!自発的な精神がとても強い。一方で私はこのころから引っ込み思案のネガティブ志向に入っていった。ネガティブな子供が大人になったら、こうなったは、また後述するとしよう。
子供の時のいじめ
彼を奮い立たたせた行動は、私と全く同じであった。その時期は違うが、私は中学2年生の時だった。
2年生の序盤で、明らかにガキ大将的な同級生がいた。顔はとても恐ろしい顔をする。まるで人でも殺したような顔だ。
ある日、明らかにいじめられそうな子を、ひつように追いかけまわしていて、それを制止しようと自分が割って入った。「やめろよ」
そのときから、反抗的な自分に対し、いじめが始まった。いじめ自体は小学校時代からも存在していたが、それとは、また違う。暴力的で社会的にNGなことばかり起きる。いわゆる不良集団だ。彼らはとにかく自分に不都合な存在を、消し去ろうとする。善悪の判断はあまり持っていない。逆に同調すると、いじめられる側からいじめる側へ行くことになる。服従のような関係のグループが出来上がっていた。
どこの学校にもそんな不良はいるものだと、その時代は思っていた。
彼は武器を使って対抗したが、私はそんな不良でさえ、傷つけてはいけないと思っていた。それは、家の教えもあったからかもしれない。自分が犠牲になって収まるのならと考えていた。おびえながら無難にやり過ごしながら、クラス替えまで耐え忍んだ格好だ。頭の中では何度も武器を使ってでもとっちめていたシュミレーションを行っていたんだけど。実際に実行するまでもなかった。
高校生になっても、やはり変わり者扱いされ、陰湿ないじめは続いた。しかし、大好きなクラブ活動(アーチェリー部)があったため、何とか一日も学校を休まず、高校生活を終えるのであった。そのアーチェリーでインターハイに個人出場し、加点を得て、無事に大学へ進んだのである。
今の学校教育の在り方、自分がされてきた嫌なこと。この図式を変えなければならないと、今でも強く思っている。だって、大人になってもいじめは存在するのだから。
小学生で一人旅?ぶっとんるぜ淳さん!
つくば科学万博(1985年)っていうのは、今初めて知った。大阪に住んでいると、まだ生まれていない千里万博が有名で、時々エキスポランドに連れて行ってもらっていた。その後ジェットコースター事故でエキスポランドは閉園し、長い年月を経ていまのエキスポシティーに生まれ変わっている。
その後、大阪市で花の万博が開かれた、家から自転車で通えたことを覚えている。2025年今度は咲州で4回目の万博が大阪で開かれる予定だ。
小学校5年生で山口県からつくば市まで、たった一人で旅をして帰るなんて、すごすぎる。ませているとしか言いようがない。その頃私は絶賛、塾通いをしていました。
私もそんな冒険してみたかった。きっとワクワクだらけなんだろうな。彼の家はそんな旅費を工面するのも大変な家庭事情にも関わらず、交渉に交渉を重ねて、2泊3日の旅費3万9000円は、当時の金額としてはとても大金です。とても小学5年生が扱う金額ではなかったと思います。
交渉に決して根負けしないところがすごい。”田舎の小さな島から出たい田村少年の願望”
都会は怖いところ、何かあったら走って逃げろ!母ちゃんの発言。なんだか田舎っぽいけど、そんな母ちゃんも都会のイロハをあまり知らなかったからだろうね。そんな提案をする母ちゃん、おもしろすぎる!
交換日記
中学校1年生の時、生徒4人+担任の先生で班ノートというものがあった。交換日記とは少し違うが、班ノートは今でいうところのグループLINEのようなものに相当する。ノートを順番に回してゆくもので、学校の宿題とも違う。生徒のメンタルを確認する意味もあったのだろう。これにより横のつながりが深まったことだろう。
「俺の代わりに返事書いといてよ」とめんどくさがった淳さん。文章よりリアルが良かったんだろうことが分かります。
実は進路を決めたんだ
「俺、中学を出たら彦島をでて、社会に出たい」発言。中卒希望ともいえる。当時でも高卒は当たり前だったことからすると。親目線では、「何言ってるんだこの子は?」になるのは当然だと思う。
うちの父は、家庭事情で中卒だった。それは仕方がなかったことで、本来は高校を卒業したかったに違いない。みんなが当たり前の進学を望む中、何の躊躇もなく社会に出たい!といったアグレッシブな一面が見える。すでに小学校5年生で一人旅を実行した男だから、なんだってできる!という強い自信が感じられる。
煙草のカッコよさにあこがれる
高校時代に彼は煙草で停学処分になっている。カッコつけたい、大人になりたいという気持ち。煙草はその象徴のようなものだったんだろう。子供が真似すること。それがどういった未来を意味するのかということ、まだ高校生では理解が難しかったのだろう。
私は煙草否定派だ。煙草とは、精神の弱い奴が慰めに吸うものだ!と考えている。喫煙による快楽などなくても生きて行ける。喫煙者が理解できない。そんな私だが、ZIPPOライターの製作サービスを行ってている。矛盾しているのでは?って思われるかもしれない。
けど、煙草はダメ。絶対。
喫煙者の健康を損ない、関係する家族を不幸にする。新型コロナで亡くなった、ヘビースモーカーの志村けんさん。私は彼の笑いが好きだった。ドリフがとても好きだった。
高校時代のアルバイトで得たこと
「どうしたらこんなに旨いものができるのか知りたくて、うずうずする。」
カルボナーラとの出会いのシーンです。
こういった気持になるところに、”探求心””向上心”が見える。子供心に興味が刺さる。
彼が、働くということを知り、どうすれば結果を出せるようになるのかを、高校生という早い段階で得ていたことになる。
私は興味を持つ。知るということは早いほど良いと思っている。
大阪の建設会社が倒産してしまったターニングポイント
彼は、中学校からの夢、芸人になりたいという強い希望。この倒産によって、実現に拍車がかかったといえる。両親からは失望だったが、彼にとっては、チャンスに見えていたに違いない。
下関の芸人コンテストで爆笑を勝ち取って、自信もついていただろう。でもその功績の周囲評価は厳しかったといえる。私もそうだ。自分が行っている事業「人を暑さから救う」も最初はだれも認めてくれるものではなかった。製品力も弱かったためもあるが、あきらめずに目的達成のための努力を毎日行っていた。改良に改良を重ね、現在のレベルを達成した経緯がある。
この時点で彼の心には、小さな灯が灯された。冒険心と共に。
先生の言葉
下関のお笑いコンテストで高評価だったことを先生に報告するシーン
「田村、お前がコンテストで優勝したのはすごいことだと思う。だけど、それは地元の高校生が面白いことをやっているから優勝できたんだ。」「お笑いだろうがバスケットボールだろうが、プロの世界はそんなに甘いもんじゃない。」「お前が思っているよりも何百倍も、プロの世界に入って飯を食うということは難しいよ」
先生の言葉より
私も同じようなシーンは何度か経験がある。”プロは甘くないよ”の言葉。確かにおっしゃるとおりである。できないときは全く実現できなかった。この先の不安さえ覚え、夢をあきらめることもしばしば。
しかしそのたび、悔しさだけが私の中で紋々とめぐっていた。このまま実現できなきくていいのだろうか。毎日が葛藤で、いまも葛藤を続けている。
チャレンジするタイミングもとても重要だと思う。今その能力が自分に備わっているか。社会から認めてもらえる時代背景があるかなど。
先生は、最後にまだ若いんだし、挑戦してみろ!と背中を押してくれている。それはとても田村少年の心の支えになったことだろう。良い先生に巡り合ったものだ。
第二章 上京物語-もう故郷には戻らない
山口県の離島から、大都会東京へ行くシーン
地元の友達とお笑いコンビを組んで18歳で東京へ・・・。当時の彼女と別れを告げる。ここでは、断捨離が行われている。自分の本当にやりたいことが明確で、まっすぐな気持ちがよくわかる。
私の高校を卒業後、大学へ進学した。同級生の大半は就職したが、まれな大学進学となった。特に大学に行きたかったわけではない。やりたいことが見つからず、大学4年間の時間稼ぎをしたかったのだ。
それに、大学へ進学するだけの学力は持っていなかった。アーチェリー部時代、インターハイ出場で稼いだ加点があって、スポーツ推薦で入学できた経緯があった。
東京の5万5000円アパート暮らしからのスタート
私も大卒で就職した広島の会社で5万円の分譲住宅の一角で賃貸として、一人暮らしをしていた。
衣食住いずれもまともではなかった。それでも一人の生活を送っていた。
東京の5万円台と、広島では住処のクオリティーは全く違う。彼の住処は風呂無し、トイレ共同って大きな差だね。
東京に行けばすぐにテレビに出られると甘く見積もっていた誤算
考えればまだ18歳の少年だ。東京に住んだこともないし、現地に知人がいたわけでもない。全くの情報がない中、飛び出した。現在の豊富な情報網と比べ当時は、風のうわさ程度の情報しかなかったはずだ。不透明感半端ない。それでも上京を押し切ったのは、地元での圧倒的な自信からだろうか。一度決めてかかったらあきらめない精神も強い。
一回目の上京は、全くうまくいかず、いったん実家に帰省するシーン
私も広島で4年勤めた会社を、離脱している。入社前に4年で辞めるつもりであったが、予定通り事が進んだ。実際は、すでに数年前から辞めたかったのだが、その後の展望がなかったため、きっちり4年頑張ろうと思ったのだった。
辞職して1年は広島にいたが、独立して始めた記念品加工業が全くうまくいかず、すぐ実家の大阪へ帰ることになった。
田村亮さんとの出会い
東京に行くことでやはり、たくさんの出会いに巡り合えたのだろう。その中、現在の相方に出会えたと書かれている。いろんな人が集まり、夢や希望をもって願いをかなえる街それが東京。みんなが絶対かなえられるわけではないが、可能性に満ちあふれている街と思える。
最初は道端でゲリラライブ
音楽家でもよくある話だが、ストリートライブの事だ。お笑いのライブにはあまり遭遇したことはないが、支援してほしいと頑張るストリートミュージシャンは駅前などでよく見かける光景だ。昨今、新型コロナウイルスの影響で、活動自体もお客さんの人通りも少なくめっきり見かけなくなった。
450円の初ステージ代を母ちゃんへ送る
淳さんらしいな。たったの450円。でもお笑いの初任給。安すぎる!吉本興業ってどんなにピンハネしてるんだ?って思ってしまう。とても厳しい世界だ。だから多くの芸人さんはアルバイトで暮らしている。副業無くして本業の芸人活動なんて無理なのが現実だ。
ロンドンブーツ1号2号
商品名やキャッチフレーズは、とても重要な要素だと思っている。私はいつも心がけていることがある。カッコイイローマ字よりも、日本人をターゲットにしているのだから、品名でなんとなくイメージができそうなネーミングにし、さらにインパクトが強い、より注目されやすい名称になるように工夫している。最後に語呂や音も付け加えて考える。はまったときは、その名で売れることは多く経験してきた。
芸名: ロンドンブーツ1号2号
当時の芸人さんも奇抜な名称が多かったが、最初、ロンドンブーツ?なんでそれが出てきた?って思っていた。著書の中にもネタの中からコンビ名にしたと書いてあるが、”ロンドンブーツ”がどこから拾ってきたのか書かれていなかった。(ネタ合わせの内容だからそこの中身までは覚えていなかったのかな?)
稼いだ金額分のマンションに住む理解できない行動
ロンドンブーツ1号2号が人気お笑いコンビとして成長を遂げていた時に、急激に成長していたことがわかる。数か月単位で引っ越していてどんどんグレードアップしていく様が、私には考えられなかった。似たようなことをして失敗している芸能人は多々あるというのに。
なぜそのような背水の陣を敷くのか、保守的な私には到底理解できない行動だ。家賃はせいぜい収入の1/3ぐらいまでが妥当なラインだ。そうでないと食費や光熱費などその他の支払いに回せない。完全に破綻してしまうから。
それでも彼は大きな自信があったという。
一度別れた彼女に猛アタック後結婚
ここもぶっ飛んでいます。そんな逆転劇が世の中通用するのは彼ぐらいではなかろうか。それも彼自身が振ってからの再縁。驚きの連続だ。幼少期の行動とさほど違いがなく感じられる。基本男の本質は小さい時と変わらない気がする。女性諸君、男の行動が気になる場合は、幼少期の行動パターンを聞いてみるのも良いかもしれない。
そんな中、彼女のお父さんが取った行動だ。西野カナを彷彿とさせる娘の「取扱説明書」だ。これは本書の中で大ウケでこの本を読んでいた。一番ウケたポイントかもしれない。詳しくは「母ちゃんのフラフープ」を手に取って読んでほしい。
”芸人田村淳”を意識してなのか、笑いのセンスが素敵!私もこんな親父にあこがれます!
第三章 あなたの子供でよかった
この章よりタイトルの母ちゃんの話につながってゆく。
強い母ちゃん像を見て取れる。がんの手術の痛みに耐えて、周りに迷惑をかけないと頑張っていたり、自分よりもところどころで息子の心配にケアをする。本当に息子想いの母ちゃんです。
母ちゃんの味を、嫁さんが受け継ぐ流れなんかも泣けてきます。
その頃母ちゃんが、死を意識して準備をしだしていたこと、まるでウエディングの準備のようにすべて自分の死後の作法を残し行ったこと、死後も自分と残された遺族を思っていたこと。すごいパワーだ!と思った。
延命治療を拒否
誰もが死ぬように痛い痛いよりも楽なほうが良いと思うだろう。医療も発達してきたため、手術をすれば早期なら助かる時代だ。初期の治療の痛みにこらえることが苦痛だったことも要因だと思うけど、自信が看護師でいろんな人を見取ってきたという経験も、その選択を母ちゃんがしたこと納得がいく。
生は授かるもの、終活は自分で終わらせるもの。どのようなラストを迎えるかは、自分で選択する時代なのかもしれない。
最終章 母ちゃんのフラフープ
ユーモアたっぷりの淳さんのお母さん。その血筋はしっかりと受け継がれているなーって、この本を読んでいて伝わってきた。そして、息子はしっかりと天職をモノにして、孫の顔まで見せることができて母ちゃんも幸せいっぱいだったと思う。
最後に
ここまで、数日に分けて感想文を書きましたが、いかがだったでしょうか?(5/25までに感想を書ききるつもりで書いていました。)仕事の合間に書くことが多かったので、まとまりのない感想になってしまったかもしれません。皆さん多様な意見があるかと思いますが、この本、私が最初に読破した本です。活字が苦手なあなたにもお勧めします。ぜひ本を手に取って読んでみてください。
私事ですが、この本を広くたくさんの人に読んでもらうため、まもなくリリースするプロジェクト「交換広告ドットコム」を使用し、拡散に協力したいと考えている。すでに、活用方法や戦略は考えています。ちょうど淳さんが切望した拡散タイミングと、プロジェクトリリース日程が一致しています。ベータリリースタイミングは6月に入ってからになりそうですが、富士山キャンプまでにはお披露目したいと思っております。
この本を読んだ他の方の意見は、1,2章の自叙伝が多く、母ちゃんの最終章が短くて少しがっかりしたという意見がありました。しかし、私はこの内容でよくまとまっていて、良かったと評価いたします。しっかりとした内容だと思います。修士論文も添付されていますが、ものすごく勉強されたんだなと学習意欲も伝わるものでした。
私も励みにしたいとおもっています。
淳の兄貴!いつも背中を見ております。
たむ小4期生@人間エアコンゆう
- 文字数8747
- 単語8747
- 見出し26
田村淳氏著書「母ちゃんのフラフープ」
母ちゃんのフラフープ 田村淳 著
コメント